第六章 一瞬の永遠 - Magic Recruit
蒸し暑い午後であった。既に春は過ぎていたが、まだ夏になるには早い、初夏直前の季節。とかく、暑い。春の最高気温となるのは間違いないだろう。
道行く人も、心なしか薄着な人が多い。昨日までは、春にしては寒く、人々は油断していたためか、腰に上着を巻いている者も少なくない。
ボロアパートの部屋々々はどこも窓が全開であった。
だが、一室だけ、窓を締め切っている部屋があった。雨戸さえも閉まっている。
中はムアっとサウナのように暑い。否、サウナのような健康的な蒸し暑さとはほど遠い、気持ちの悪い暑さ。小一時間でも中にいれば、すぐさま病院送りになってしまいそうな危険地帯と化している。
その部屋の主アルディは、ベッドの上で本を読んでいた。目は虚ろで、ページをめくるスピードが異常に早く、本当にその本を読んでいるのかさえ危うい。
髪はボサボサのままで、ヒゲもうっすらと生えている。それは、山籠もりの仙人を思わせる。
実際彼は籠もっていた。自らの部屋に、否、自分自身の殻の中に。
彼は紹介された魔導社に書類を応募してからは、他に社を受けていなかった。あの出来事以来彼の心にぽっかりと穴が空いていた。ただただ空虚であった。外にもろくにでていない。
そうやって二週間が過ぎ去ろうとしていた。
シャントは、そんな彼の側を離れなかった。まるで金魚のフンのように、まるで我が子のことをどこまでも心配する母親のように。
しかし、今日は彼の側にシャントの姿は見えない。
アルディは本を閉じた。その実、今しがた読んでいた本は五十回目の読了であった。挿絵付きの小説である。彼はすでに、実家から盛ってきたもの、一人暮らしをしてから購入した本も全て読み終わり、見飽きても何度も何度も繰り返し読んでいたのだ。とにかく時間の浪費であった。
もう行動力を失った彼は、こうして"ただ生きる"のみを繰り返す事しかできなくなっていたのである。
「うぉーい、シャントぉ、散歩行くぞ!」
とてつもなくぶっきらぼうな声で彼はがなった。まさに酔っぱらいの親父のそれである。もうすでに彼の心に清らかな姿は残っていないというのか。
アルディが呼びかけても彼女は来なかった。いつもなら、名前を呼べば、すぐにヒューッと側に来てくれるのだが。
「おい、シャント! どこだよ、ったく」
シャントは、彼がどんなに横柄な態度をとっても、側にいてくれた。彼にとって、シャントは唯一の心の支えだった。
しかし、堕落の道に片足を入れてしまった彼はいつしか天狗になり、シャントを意のままに操ろうという心まで芽生えてしまっていた。
アルディはのそのそとベッドから降り、部屋中をグルグルと歩き出した。「おーい」や、「どこ行ったー?」など言いながら、散らかった部屋の物々をひっくり返し、心の下僕を捜し出した。
しかし、どこを探してもシャントは見つからない。
ふと、机の上を見るといつものビンが目に止まった。シャントの寝床となっているビン。中には、なにやらピンク色の何かがモゾモゾ動いているのが見える。
なんだ、寝てんのか、とアルディは、半ばがっかりしたが、ならばたたき起こしてやる、と机の上のビンにヅカヅカと歩み寄った。
アルディは、怒声をかけようとしたが、そのビンを見るや、ギョッとし顔で口をつぐんでしまった。
「シャ、シャント...?」
ビンの中には妖精と思われる物は何一つない。中には、スライムのようなドロっとしたものが入っているだけだった。
そのスライムには大きな目玉がある他、手も足もない。その目は、シャントのそれとそっくりで、かろうじてシャントであるとの面影があった。
「......っあっ、シャント、おまえなのか......?」
アルディは、あまりもの光景に驚き、最初はなにも考えることができなかった。かろうじて出た言葉がそれであった。
彼は不安にかられた。もしかして、シャントが死んでしまったのではないかと、何かわからぬが、彼の中で二週間消えていたシャントに対する情が吹き出してきた。
シャントは、頭も体も区別もつかない状態だったが、目をしばたかせ反応した。
(よかった、生きてる!)
それがわかっただけで、アルディの不安の半分は消え去った。
安心して腰が抜けそうになったのをかろうじ踏んじばった彼は、どうしようか、これは人間にとってはどんな症状か、とにかく、尋常じゃない状態なのは見たからに明らかである。頭が急に回転しだした。まるでそれは、二週間止まっていた時計が急に回りだしたようである。
アルディは、熟慮を巡らし出したが、自分で考えてもしかたないと観念し、先日妖精に関する本を見た事を思い出し、本棚を漁りだした。
本を、パラっとページをめくっては放り投げを、を繰り返したが、先日見た本がなかなかでてこない。
「あぁ~~~!!」
アルディは頭をかきむしり絶叫した。
彼の時は動き出したものの、二週間のストレスと苦悶が消えたわけではない。それが彼の思考を邪魔した。
しかし、目の前の大事な妖精をこのままほっとくわけにはいかない。なんとか助けられないか、とイラつく頭を、無理矢理集中させた。
「そうだ!」
彼は、なにを思い立ったか、今度は財布を漁りだした。
ほどなくして彼は手を止め、いちまいの名刺のようなものを手に取り、しげしげと眺めた。
「あった...、精が出る妖庵院...あ、怪しすぎる」
その文字は、紫色の地に、真ん中にでかでかと金色の飾り文字で書いてあった。風俗店か、と疑ってしまうような名前と名刺である。
そんな怪しい名前のそれは、妖精専門の病院である。
魔法の街マーリアルといえど、妖精の事はあまりはっきりとは解明されておらず、妖精専門院はここ一カ所しか存在しない。
先日アルディは、買い物で行ったどこかの店のカウンターでこの名刺を偶然見つけ、その派手さから、妙に印象が強かったのだ。
彼は一瞬行くのをためらったが、背に腹は替えられない。彼はこの怪しい病院に向かう意を固めた。
決意した彼の行動は迅速であった。さっと荷物をまとめ(その中には、応急処置のヒーリングの魔導書を入れ)、シャントがいるビンを抱きかかえるように優しく脇に抱え、跳ねるように部屋を出て行った。