第三章 - 赤い星
「北辰旗が気になりますか?」
島が淹れたてのコーヒーを彩子の手前に置いた。
「あ、いえ。どういう意味があるのかなと思いまして、魅とれていただけですが...。」
彩子はあの歴史散歩講座の申し込み用紙をバックからおもむろに取り出して、島に手渡した。
「あのう、講師の先生に渡しておいて下さい。」
彩子が照れくさそうに島にそう言ってからコーヒーに砂糖を入れようとした。
「あ、これね。俺が講師の先生だから。まっ、先生っていってもね、たいしたことはないけどね。ようこそ赤い星にいらっしゃいました。」
島は彩子に向かって丁寧におじぎした。
ええー!そ、そんな。こ、この人が先生???。彩子の頭の中でキリスト顔、クリスマス・イブ、ロン毛、涙、と島へのイメージが火花のように散って炸裂している。先生のイメージが繋がらない。なんで......。
彩子の顔は驚きで、口は半開きのまま呆然としていた。コーヒーに入れようとしていたスプーンにすくわれたグラニュー糖は、南の島の海岸の砂のようにサラサラとテーブルの上に落とされ、虚しく散逸した。
「サークルのメンバー募集のチラシに講師・島正之進って載っていたでしょう。それが俺の名前さ。」
「某大学の非常勤講師だっていうから、この赤い星に改めて来るのかと......。」
彩子は訝しげに島を見上げて言う。
「某大学の非常勤講師といってもね、アルバイトだからね。本職は赤い星のオーナーなんだよ。某大学っていう名称にみんなつられるのさ。」
カウンター席のお客さんが彩子を振り返りえりながら言った。その隣の席に座っているもう一人のお客さんもすかさず言う。
「あんた、だまされたんだよ。この島ちゃんに。自分も、この人も。」
二人のお客さんは同時に顔を見合わせて笑い合っている。そして二人とも彩子のボックス席に向かってきて座り込んだ。島の紹介で二人のお客さんは、それぞれ彩子に挨拶をした。最初に彩子に語った人が相田さんで、二人目の人が大山さんと名乗る。
「島ちゃんは客の足が遠のくと、客集めにサークルのメンバー募集とか言ってチラシをまいて、客集めに利用するんだよ。」
と相田さんは笑いながら言う。
「この赤い星は父から譲り受けた店だから、人手に渡したくないんですよ。曾祖父がね、明治の開拓時代に役人として働いた縁で、父は赤い星という名前をこの店につけたんだよ。」
島は腕を組みながら考え深げに言う。
「とりあえず島ちゃんは先生であって、月に何回かは某大学で講義はしてるけど。あ、あなた、お名前は何ていうんですか?」
大山さんは照れくさそうに彩子に問いかけた。二人とも定年を過ぎて、悠々自適に暮らしているような風貌である。
「坂上彩子と申しま......。」
彩子が最後まで言い終わらないうちに、相田さんが彩子の言葉の上にのしかかってきた。
「お、いけねえ。ワイフと待ち合わせの時間じゃないか。大山君、スマン。十四時から市民会館でコンサートがあるんだ。今日はワイフの誕生日でね。その後は某ホテルで食事会をするのさ。たまにサービスしてやらないと、うちのワイフは怖いからね。」
相田さんは急いでコーヒー代をカウンターに置いて、赤い星を出て行った。大山さんも何となくそわそわしているようで、落ち着かない様子だ。
島が口火を切る。
「大山さん、今日は講議をしないから、また来月にしましょう。来月は現地集合ということで。そうだなぁ、この近くの『豊平館』に集合して下さい。」
「そ、それじゃ。島先生、また、来月、ごきげんよう。そして坂上彩子さんも必ず来月から来てくださいね。」
何となく逃げるようにして、素早く、大山さんは喧しい呼び鈴を鳴らしながら、大股で出て行った。